高女沿革

高女の誕生

 明治39(1906)年、西条町ほか10か村の組合立西条実業女学校の設置が認可され、翌年4月15日に大師町東北のはずれにある隆昌寺と善導寺を仮校舎として、授業が開始された。設備も不充分で雨の降る日は暗く、夏はやぶ蚊になやまされたが、生徒達は充分幸せで、小学校とは異なった寺子屋風の教室で勉学に励んだ。生徒総数124名であった。初代校長岡崎要賢先生が県視学から就任し、創立より県移管までの17年間、産みの親育ての親として尽力するとともに、女学校の基盤を築いた。教育方針は、温良貞淑・良妻賢母の育成を理想とした。

 通学姿は木綿の筒袖の着物に海老茶色の袴・白足袋に下駄の装いで靴も時々は履くようになた。きものは縞かかすりで、縞は大変細く布巾にいくつ位と定められており、とても質素であった。雨の日はから傘、夏は日よけに黒い木綿傘をさし、髪は1年から束髪で3・4年生になると前髪を高くふくらませて「二百三高地」という真中を高く束ねている髪型であった。今の服装からみると全くオバサンの様であるが、当時は女学生というプライドをもって颯爽と西条の町を歩いていた。

 学用品は無地の大ぶろしきに包み、裁縫、手芸用具、ソロバン、絵具皿、筆洗いまでぶらさげ、時にはお花まで持っていた。勿論汽車もバスもなく氷見・禎瑞・飯岡あたりからテクテク歩いて、文字どおり朝星夜星で登下校したのでその労や思いやられた。それ以上遠方の生徒は寄宿舎に入った。

 明治41年4月1日に新居郡立実業高等女学校と改称し、10月3日明屋敷四軒町に、黒い板塀にかこまれた3棟の校舎が新築され、盛大な落成式が行われた。その後、度々増改築が行われたが、昭和13(1938)年大町下町の鷹丸(現市民グランド)に移転するまでの約20年間、四軒町の女学校として多くの人々に親しまれた。白菊会(西条高女卒業生)の人々にとって、数多い思い出の学び舎として忘れ得ない心の古里であった。

 当時女学校は県下どこでも黒い高い板塀で周囲をかためて、節穴までふさぎ、外から内部を見ることもできなかった。正門をはいると前庭には校歌にちなんで姫松と若竹が植えられており、玄関に続く道は白い小石で敷き詰められていた。質素ながら明治調ゆかしい落ち着いた校舎であった。油ぶきしてつやつや光っている廊下、すみずみまで清掃のゆきとどいた教室など、何となく女学校らしい雰囲気が漂っていた。運動場の大きなユーカリの木陰で友と語り、クローバーの茂った校庭で四つ葉をさがして教料書やパス券にはさんだり、秋にはたくさんの菊づくりをするなど、乙女の心を潤し、夢をはぐくんでくれた美しい環境だった。

 制服は昭和10年頃より、夏服は現在とほとんど同じ白い長袖のブラウスに紺のジャンパースカート。冬の上着はセーラー服で、グリーンの線とネクタイではなく黒い線とネクタイであった。セーラー衿には白いピケのカバーをつけていた。白い衿カバーをいつも清潔にパリッと糊をきかせておくことが大切な身だしなみであった。夏冬共に黒の木綿の長いくつ下を履くこととされていた。帽子はなく、柄だけちょっぴり赤い黒のこうもり傘をさして真夏の陽の道を通学した。

 強健なこどもを育てるには、母の健康が第一であるとして体位の向上に力点をおき、服装が洋服になったこととあいまって、テニス・登山・水泳などが奨励された。テニスは、大正時代から昭和にかけて大変さかんになり、大正13年に行われた第1回予讃軟式庭球大会では今治高女を破り優勝を飾った。さらに同年7月には職員生徒23名で石鎚登山に挑戦した。その頃石鎚は女人禁制といわれ、山には天狗がすんでいるなどと信じこんでいた時代であり破天荒の快挙であった。その後、登山計画が発表されると希望者が殺到してうれしい悲鳴をあげるほどの盛況であった。また、夏の行事として臨海学校が開設され、全校をあげて海水浴を楽しんだ。

 城下町西条にふさわしく、おっとりと上品で礼儀正しい生徒が多く、東は宇摩、西は周桑からの才媛が集まっていた。明朗で怜悧な生徒達は、研究物、読書感想文、詩歌を配したりした謄写刷りの冊子「けしの実」を発行した。

大正15(1926)年度及び昭和2年度の資料によると、本校は県下一の入学難で受験者の成績も大変良好で各科平均74点では不合格となったようである。その頃の入学試験は、数学.国語.歴史.作文と口答試問で記述方式であった。なお、授業料は4円50銭、校友会費1円であった。


新校舎落成移転

 日中戦争(1937〜45)がますます拡大し、戦雲ただならぬ中で四軒町の校舎に別れをつげ、広々とした新校舎に移った。木造2階建でクリーム色の新校舎はモダンで、何となく女性的なやさしさのある建物であった。立派な講堂.作法室の美しいこと、特別教室の設備のよさなどに、一同大喜びをした。

職員生徒一体となって引っ越し作業をした。8月下旬の炎天下、割烹着に経木帽子、手拭を腰につけ、四軒町の校舎より片道30分に近い道のりを、大八車や乳母車、或は両手にさげ、あるいは2人でかつぎなどして、本や机・大切な標本類・運動具など一切合切を運ぶ様子はまるで蟻の動きにも似ていた。

第2学期の授業を新校舎で受けることになり、毎日糠袋で教室.廊下.講堂のみがきいれがあり大汗を流した。新しい校庭には、背丈を超える夏草が一面にはびこり草ぼうほうの有様であった。そこで、生徒は一列横隊にならんで前進、その後を続隊が残りの雑草を引いてゆき、湿地の所には土をいれ、ロ−ラ−でのばしたり小石を拾ったりで、全校生徒は汗だくだくになり運動場を作った。

日ごとに戦時色が濃くなって時局講演が度々おこなわれ、防空訓練も始まり、若い先生方も応召された。慰問袋づくりも忙しく、授業中によく千人針(多くの女性が白のさらし木綿地に赤い糸で1人1針ずつぬって武運長久を祈り出征兵士に贈るもの。これは弾丸よけになると考えられていた)が回ってきた。食糧も乏しい時代であったが、毎週水曜日には日の丸弁当といって、麦飯の中央に梅干一つだけ入れおかず無しの弁当を持参し、前線の兵隊さんのご苦労をしのんで先生と会食をした。 また、武道(薙刀)を正課にとりいれたり、勤労奉仕作業など、学業以外の行事がだんだん増えた。それでも昭和15(1940)年頃までは、東京方面への修学旅行も行われ、爆撃もなく、まだまだ平穏な学園生活であった。

 その後、時局はいよいよ緊迫、物価統制.配給制度.国民徴用令等も布かれ、世間のすべては軍国調ただ一色に塗りつぶされた。昭和16(1914)年12月8日、対米英戦争に突入、太平洋戦争となり、ペンを捨て、銃をもって若き学徒らは戦陣へと駆り立てられた。学徒勤労動員令下、4年生はクラレ工場で働き、3年生は校舎の半分を工場化した学校で毎日ひたすら軍需品の生産に励んだ。国民あげての必死の努力にもかかわらず、戦局はいよいよ不利となり、多くの都市が爆撃をうけて、焦土と化してしまい、やがて終戦の日を迎えた。

昭和20(1945)年8月15日無条件降伏をしたこの日よりすべてが逆転し、新しい民主主義の時代が開かれることになった。6・3・3制の実施、男女共学、通学区制の実施とめまぐるしく変化し、わが西条高等女学校は西条中学校に統合された。ここに40年の歴史と伝統を誇った西条高等女学校は幕をとじ、新制度による西条北高等学校として新しい出発をする。

 

 

 

 


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