高校沿革

学制改革 そして総合高校へ

 昭和20(1945)年8月のポツダム宣言受諾によって、わが国は連合国の保障占領下におかれ、連合国軍総司令部(G・ H・Q)の支配をうけることになった。総司令部は日本政府に対し、婦人の解放・労働組合の育成・教育の民主化・経済の民主化をはじめとして、政治・経済・社会・文化の各方面にわたって民主化の指令を出しわが国の変革を要求した。そのため、わが国の教育は民主化の線に沿って大変革をとげ、やがて戦後教育の根幹を形成することになった。この間の事情を本校70周年記念誌にみると、「終戦直後は文部省からは教育勅語の奉読をやめよ、従来の忠君愛国・親孝行の道徳教育は停止せよ等々の消極的指令は続発せられたが、これをしろ・あれをしろという積極的指令は皆無であった。」という十河信二氏の西条市長時代の思い出や、「ともかくも戦争は終った。会社の人たちに別れを告げてなつかしの学校へ、前途への不安と疲れ切った虚脱した心を抱いて登校したが、教科書もノ−トも無い。当分の間は校内外の整備、銃器類引き渡しのための作業とか菜園作りで過ごさざるを得なかった。そのうち海軍飛行予科練習生、陸軍特別幹部候補生、海軍予科兵学校、陸軍幼年学校などから続々復学し同級生の数は日毎に増え」といった生徒(48回卒・小城氏)の体験からも混迷期の様子がうかがえる。このような状況の中で着実に戦後教育の根幹が形成されていった。とくにアメリカ教育使節団による報告書(21年3月)により教育の全般にわたる改革の方向が示唆されたことと、同年11月の日本国憲法、22年3月の教育基本法・学校教育法の制定が、戦後教育の中心にすえられたことは、いうまでもない。

 翌23(1948)年にはいよいよ6・3・3制の学制改革が発足し、西条中学校は愛媛県立西条第一高等学校となり、前年までの西条中学校への入学生のうち中学校に属する生徒は併設中学校に吸収された。同年10月には定時制も発足。24年9月1日には高等学校再編成により、西条第二高等学校(旧西条高等女学校)も統合し、愛媛県立西条北高等学校と改称。25年4月には通学区制を実施し男女共学となりその結果、北高は市内の東・北・西の3中学からの生徒のみを受け入れることとなった(同時に新設された商業科は、もう少し広い学区)。共学によってそれまでの旧制中学的バンカラの気風は一掃され、校舎も男子生徒の服装も綺麗になった。その後、昭和30年には愛媛県立西条南高等学校普通科300名を統合し、校名も現在と同じ愛媛県立西条高等学校と改称し、幾多の変遷を重ねた校名もそれ以来現在に続いている。


ナンバー・スクールのころ

 敗戦後の一連の教育改革の中でも昭和22年は画期的な年であった。学制改革による6・3・3制実施のため、県内にも公立新制中学校277校が4月15日に発足し、従来からの県立・私立の中学校には併設中学校が設置されて、西条中学も第1学年入学者を迎えることができなかった。明治29年創立の伝統を誇る本校も、6・3・3制に伴う改革で高等学校に発展的解消をとげる日が近づいた。文部省は新制高等学校制の実施にさきだって、12月27日付で「新制高等学校実施準備に関する件」を通達し、そのなかの文部省学校教育局の作成した「新制高等学校実施の手引」によると、 (1)教育行政の重点は6・3制の実施にあり、中学校を優先させる。 (2)新制高等学校の設置に当たっては小・中学校を合わせた総合的計画による設置をする。(3)なるべく総合制の高等学校にする。(4)男女共学制をとる。 (5)高等学校の設置は現在の中等学校をむりなく移行させるため、恒久的基準のなかに暫定基準を設け、同26年3月31日まではこれによる。 (6)高等学校には定時制課程を設置する。などが明らかにされた。そのうえで翌23年1月27日、文部省は、「高等学校設置基準(文部省令第1号)」を明らかにし、高等学校における学科をはじめ必要な設備について詳細に規定、2月4日付「昭和23年度新制高等学校入学者選抜について」、5日付「昭和23年度における新制高等学校教科課程の運用について」を布達、10日付の「新制高等学校実施に関する件」によって新制高等学校は昭和23年度から実施されることが全国の自治体に通達された。県でも、新制高等学校の設置に当たって多くの問題を抱えていたが、23年4月1日には準備も整ったので「愛媛県立高等学校設置規定(県告示124号)」を公布し43校を発足させた。県立西条中学校は県立西条第一高等学校と名称を変えた。前年は入学者をとってないので旧2年から5年生までがこの改革で影響を受けた。本校の卒業回数では49回から52回に当たる。先ず49回卒の場合、西条中学入学は昭和18年4月6日。戦争の激しい時期から敗戦の混乱期に学校生活を送り、238名が昭和23年3月3日卒業したが、そのうち新制高校としての西条一高に進学した約100名が、最初の高校3年生となった。わずか1ヶ年の一高生活で、昭和24年には、校名が西条北高校となったため、一高唯一の卒業生達である。50回から52回の場合は、西条一高に在学して、卒業したのは西条北高校であった。

 

商業科の設置

 1 発足

 昭和23年度から、6・3・3制による新学制の高等学校が発足し、総合制・男女共学制・小学区制のいわゆる高校三原則が推進された。本校においては、それから2年経た昭和25年に上記の三原則が実施されることになった。そこで本校では総合制実現の手はじめに昭和25年4月1 日商業科が定員150名(1学年50名)をもって発足した。

2 当時の特徴

 現行のような固定した学級単位の学習方法でなく、科目の選択を基準にしたミックスホームルーム授業形態であった。このような方法はいずれは大きく変動することになる。商業科の規模が小さく施設設備も皆無に等しく、また商業科教員がせいぜい3名〜4名に止まったからである。1学年1学級であったが、昭和 38年に小松高校の商業科がなくなり、その変わりに本校の商業科が1学級増となった。学習する科目数が僅少であり少科目大単位制であった。

3 生徒と進路

 平成6年3月1日現在の卒業者数は3,328名、最近の傾向は女子の方が多い。これは昭和38年に1学年が2学級になったのと時を同じくしている(それ以前は男女の比率は男子の方が上回っていた)。学業成績の優秀な生徒達が数多く入学した。進路は、住友5社・クラレをはじめ大部分の生徒が地域の各方面の企業に就職し、進学はごく少数であった。

 

理数科の設置

1 その社会的背景

 本校に理数科が誕生したのは、昭和43(1968)年4月である。これにより普通科が1クラス減り、1学年のクラス編成は普通科7・理数科1・商業科2 の計10クラスと変更された。当時の日本は、いわゆる高度経済成長時代に入るとともに高等学校への進学率が年々向上し、教育内容や学科構成を多様化する必要が生じてくる一方、科学技術にも急速な進歩がみられた時代であった。この新しい時代に即応するため、科学技術の基礎をなす、理科・数学教育の振興の要請に応え、職業教育以外の専門教育を主とする学科の一つとして「理科・数学に関する学科」が設置されることになり、本校と松山南・宇和島東の3高校に各1学級ずつ、定員40名の理数科が設置された。

 

衛生看護科

1 その社会的背景

 本校に衛生看護科が設置されたのは昭和47年4月、中予での東温高校や南予での宇和島南高校と同時である。医療の近代化に伴う看護従事者の資質の向上と女子の特性に応ずる教育の一環としての准看護婦養成教育をとり入れることの社会の要請が高まったためである。しかし高校での看護教育は、単なる准看護婦養成だけではなく、一般教養として家庭生活に必要な衛生看護などに関する知識と技術を習得するとともに、看護に関する専門的な知識技術を修得し、あわせて社会人としての人間形成に努力することが目標になっている。もちろん、設置された社会的背景の一つは、当時の西条地区の地域医療に従事する看護婦の養成と、その量的充足を図るためであった。しかし現在では、量的充足よりも、豊かな人間性と高度な専門的知識と技術を身につけることが求められている。

2 看護科の特色

 創立当初の衛生看護科を選んだ生徒たちには、ただ西条高校へ入学したかったという理由で入学した者も居たが、今日では職業教育・技術教育等の専門教育が見直され、将来の就職と資格の修得を目ざし看護婦になりたいと望む生徒が入学するようになり、目的意識に支えられた張り合いのある学習が展開されている。さて、学科の大きな特色は、現場実習があることである。学習の対象が人間とその生命であることから、「看護実習」の中に占める病院現場での臨床実習の重要性がきわめて大きい。「基礎看護」の科目に示されている看護理念の学習のみにとどまらず、看護に従事するものとしての厳しさとあたたかい心情を、学習及び日常生活の中で徹底的に身につける必要がある。 衛生看護科が新しい学科でありながら、本校の伝統の古さの中にすんなりと受け入れられ、成長したのは、生徒たちの生き生きした学習への取り組みと、日常生活における実践力によるものである。内容は准看護婦の受験資格も取得できるよう、准看護婦学校(養成所)の教科内容に匹敵する教育内容が備えられている。 1年生は基礎科目である「基礎看護」「看護基礎医学」を履修し、2・3年生は疾病についてかなり専門的な科目「成人看護」「母子看護」「看護臨床実習」「看護情報処理」を履修する。いわば「看護」という教科で一貫した教育を展開している。現在、医療の高度化と人口の高齢化に伴い、医療・福祉の重要性が叫ばれている。そうした社会の要請に応えるために、衛生看護科の卒業生のほとんどが進学し、看護婦の資格を取得し西条市内を中心に、医療・福祉の向上のために活躍している。高校生という感性の豊かな時期に患者の痛みを知ることにより、心優しい看護婦に育ってほしいという願いであったが、看護法の改正により平成14年度からは募集停止になった。

 

定時制

1 発足と草創期

 本校定時制は、働きながら学ぶ勤労青少年の教育を目的として、昭和23年10月に定員400名の併設校として発足した。現在までに1595名の卒業生を世に送り出している。 発足当時は、敗戦後の混乱からやっと立ち直りを見せはじめた時期であった。食糧難はもちろん、あらゆる生活必需物資の欠乏、大幅なインフレなど大変な時期であったが、十分な施設設備ない中で定時制はスタートした。当初は本校の前にあった旧西条高等実践女学校の古い木造校舎の一部を借りて授業を始めた。当時全校生徒は150名位でみんな向学意欲に燃えていた。生徒の職業は、市役所・郵便局・国鉄・営林署・警察署・クラレ・住友化学・商店で働く人などバラエティに富んでいた。学歴は旧制中学4年ないし5年を卒業した人や、青年学校を終えた人おり、生徒の平均年齢は20歳を超えておりいろいろな年齢の人がおり、楽しい授業が展開されていた。その頃はまだ「定時制」という呼び名になじめず、「夜学」あるいは「夜間高校」と呼んでいた。家庭の事情や経済的理由等で、上級学校への進学をあきらめていた人や 、教養を身につけたいと思っていた人たちにとって定時制は天の福音であった。定時制を卒業後、東京大学に進学した人もいた。まもなく校舎は現在の陣屋跡に移ったが、古い木造校舎の広い教室に100ワットの裸電球がたった4個という貧弱なものであった。クラレ西条工場では多数の若い中学卒業生が働いていたが、交代勤務のため定時制に通うことが出来なかった。そのため、生徒の勤務にあわせて昼と夜の授業を行う2部制授業が始まった。2部制授業は生徒数減少のため昭和54年3月で廃止となり、現在の夜間定時制に戻った。

2 定時制の現状

 定時制は、勤労青少年の高校教育を受ける機会を保障するという役割を担って発足してから半世紀が過ぎた。この間、社会情勢は急速に変化し、定時制教育を取り巻く環境も大きく変わった。多様な入学動機・生活状況をもった生徒が増加するなど定時制の果たす役割も変化している。

 

昭和23年10月 1日

愛媛県立西条第一高等学校に定時制課程を併設。

旧実践女学校校舎で開校。普通科生徒定員400名。

昭和24年 9月 1日 高等学校再編成により旧実践女学校から西条北高等学校に移転。
昭和32年 4月 1日 普通科生徒定員600名となる。
昭和42年 4月 1日 普通科生徒定員384名となる。
昭和43年 4月 1日 普通科生徒定員320名となる。
昭和44年 4月 1日 二部制発足。
昭和54年 4月 1日 二部制廃止。普通科生徒定員280名となる。
昭和55年 4月 1日 普通科生徒定員240名となる。
昭和56年 4月 1日 普通科生徒定員200名となる。
昭和57年 4月 1日 普通科生徒定員160名となる。

 

 

 

 


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